ものぐさ日記
兼ねてから気になっていた息子の癖がチック症かもしれないと医師に指摘されました
思えば私も長らく止められないでいる癖があります
息子が直そうと頑張っているので私も密かに便乗して頑張ってみることにしました
| 12月27〜31日 終わり良ければすべて善し…? |
| そんなわけがあるかってぇの。究極のご都合主義だ、こんな台詞(もん)。何事も、人の身には「終わり」を感じることなどできない。完結したと思う出来事も、僅かでも記憶に残っていれば、いずれ何かの弾みで蘇り、満足なり後悔なりを産む。「もしも××だったら」とうっすらでも考えようものなら、その何事かは完結したはずもなく、ずーっと心の中で復活の機会を窺っていたと言える。まして、その何事かが「人生」であるのなら、本人にとって「終わり」を見ることなんか不可能だ。人生の終焉は、臨終を告げられる瞬間ではなく、生前を知る人間すべてが消える瞬間だから。思い出として他人の記憶に遺る部分も、その人の一面であり、記憶している誰かの一面ではないからだ。こうして文章を綴っている私も、友人や肉親、しばしば顔を合わせた名も知らぬ誰かに限らず、サーバのデータがイニシャライズされたり、自宅のパソコンからデータが抹消されたりした後、「このディスクって、誰が使ってたの?」「さぁ? 知らな〜い」てな会話が繰り広げられるようになった時こそ、本当に「人生の終焉」を迎えることができるのだと思う。某女性タレントの孤独死の報道を実父母と見聞きしている間中、そんなことを考えていた。テレビから流れるアナウンサーのブログの朗読に対して、実父母は「鬱やったんやろうかねぇ?」と呟いた。「鬱やったんやわ、間違い無く」と私が返すと、「芸能界に残っとったら、鬱にならんかったんやないんかなぁ?」と続いたので、「引退前から鬱やったて、確実に」と再度返しておいた。手前味噌だが、私は今、過去の自分の一面をモチーフにした作品を書いている。いや、正確には、持て余している、か。物書きは、程度の差はあるだろうが、基本的に体験したことしか詳細まで書き尽くせない。が、自分自身について書くとなると、見栄やら羞恥心やらが出てきて、葛藤せずにはいられない。「どうしても自分のことを誰かに理解してほしい」という欲求が弱くなると、途端に書けなくなるほどだ。それを、亡き女性タレントは書ききり、活字離れが嘆かれている世間において驚異的な売り上げを記録した。芸能人としての人気が高かったから売れたのではなく、読むに値する内容だったから売れたのは、間違い無い。自らの過去を曝け出し、他人に噂され、様々な視線を浴びながら、それでも笑顔で応対するなんて、物凄いエネルギーの持ち主だと感じ入る、今の私ならば。そして、そのエネルギーが必ずしもポジティブなベクトルで働いているとは限らないことも、知っている。清い部分も醜悪な部分も自分自身だからありのままを受け止め、理解し、手を差し伸べてほしい――そんな欲求が強烈にあったから、自叙伝と他人に銘打たれるような文章を綴れたのではなかろうか。だとしたら、「書きたい!」と思い立った段階で、既に孤独と葛藤を自覚し、抜け出す道を探し続けていた可能性が、つまり、鬱症状に近い心境を体験していた可能性が、高いと思う。私よりも若い身で、とても強烈な人生を送ったその女性タレントに、敬意を抱く。本人は納得も満足もしていないかもしれないが、「あなたは充分に生きたし、これからも遺る人々によって活かされていくから大丈夫」と伝えられるものなら伝えたい。地球の歴史から見れば、人類史はほんの一瞬の出来事に過ぎないと、よく語られる。そんな人類史と対比すれば、100歳まで生きても、一人分の人生もまた一瞬でしかない。これほどに短い時間を、私はどう使っているだろうかと、最近、しばしば考える。やりたいこと、やるべきことと、やりたくないこと、やってはならないこととで区別しても、どれにも該当しない時間が何て多いことか。あれもこれもと欲張った結果のように言われることも少なくないが、それは誤解だ。興味や好奇心は、多いほうが善い。「知らない」ことを自覚し、「知りたい」「やってみたい」が増え、「理解」や「満足」が次の事由に繋がるから。それに、増えすぎた対象から「より自分に必要なものと欲しいもの」を選び出す基準もできるから。「欲張り過ぎて自滅したなんてお笑いだね」と指差せる人間は、長い葛藤も強烈な好奇心も乗り越えずに遠回りして避けたタイプに多い。自分の欲求と可能性を自ら限定して100年生きても、果てしなく自分に正直に生きた人の40年足らずの経験を受け止め、理解することは難しいだろう。逆に、欲張り過ぎてもっと時間があったならと歯噛みする私には、欲求や可能性を限定した人間が100年をどう使うつもりなのかを理解できない。更に述べれば、自分の不遇を他人のせいにしたり、自分の存在と欲求を認めさせるために他人を害して平然とできるといったタイプの人間に対しては、愚の骨頂と考えているので、理解も歩み寄りもしたくない。年が明けても、私は私のまま、相変わらず欲張りで気紛れで我侭で怠慢な、罰当たりな性分を抱えて生きるつもりだ。もしも何らかの急変があったとしても、根幹は揺るがず、単に世間一般と自分の価値観や欲求の出し方を摺り合わせるコツを見つけただけに、過ぎないだろう。こんなことをダラダラと考えている40歳もいるのだから、20年も生きていない学生諸氏には人生を諦めないでほしいものだ。また少し身長が伸びた息子に乗っかられては、「せめて息子には」と思う。そんな自分を、20年前の私はまったく想像していなかった。欲張りで気紛れで我侭で怠慢なところは、全然変わっていないのに。私なんて、こんなモンだ、常に。 |
| 12月7〜26日 その5:親がチャランポランだと子は本能的にしっかりする |
| 息子の宿題を見ていた時に、「ひらかなの『ゆ』ってさぁ、横からこうして(と簡単な人の絵を描いて)パンチすると、絶対ころ〜んって転がるよなぁ」と言ったら、息子が爆笑した。なので、ついでに「ましてや、ひらかなの『の』なんてさぁ、同じように(また簡単な人の絵を隣のマスに描いて)パンチしたら、果てしなく転がっていって、どこぞの穴にでも嵌らない限り、止まらないよなぁ」と言ったら、「ママ、おかしすぎ!」とツッコまれた。あんまり笑うので、「明日、先生に『うちのママがこう言っとったよ』って話したらどうや?」と言ったのだが、翌日の帰宅後、「ママがへんなひとやってわらわれるとかわいそうやで、いわんかった」とのこと。…そうか、ママを笑われる息子ではなく、ママが笑われるのが可哀想だったのか。でもなぁ、「変なヤツ!」って嗤われるのは、とっくに慣れっこなんやけどなぁ。実際、めちゃくちゃ変なヤツだし、自覚があっても直すつもりもないんやけどなぁ。可哀想なのかぁ、う〜む…。 |
| 12月7〜26日 その4:塵ですら山になるなら本は大陸になれるだろう |
| 年末恒例、大掃除。今年は、いや、今年も、やらない。やれない。やりたくない。っつーか、やりようがない。衣類、糸、本、タロット、CD、DVDと、片付けるべき物と、収納する場所は判明している。が、収納スペースの容量と収納すべき物の体積に差がありすぎる。「どぉしよっかなぁ」と先月からずーっと考えているのだが、答えは見つからない。見つけても、1週間もすれば本が確実に増えるので、通用しなくなる。なので、やらない。やれない。やりたくないし、やりようがない。だからって何もしないでいるのも心苦しいので、とりあえず編み物の本を選別し、特に「着たいし編みたい服」が載っていないものを棚からなんちゃって手芸道具入れに移そうと決めた。即実行したら、枕元に大きな山が1つ増えた…。やりたくない気持ちが、2倍以上に膨れた…orz |
| 12月7〜26日 その3:暗号解読の秘訣は毎日何度も理解しようとすること |
| 編み物は、現在、実母に頼まれたベスト(ごしょう産業さんのサイトで編み図公開中の「ファインメリノのベスト」)を合間に挟みながら、自分用の手提げバッグを製作中。実母のベストは、85%完了って感じ。初めて横編みに挑んでいるし、他の物も同時に編み進めているため、前後の身頃の幅や長さがどうも合わなくなってしまった。編み直しも考えたが、模様はシンプルなもの1種類だけなので飽きつつあるし、全く誤摩化しが利かない差でもないし、「世界に1着しか無いからえぇんやて」(実母談)とのことなので、強引に完成っぽくするつもり。かなり心配だけど…。バッグのほうは、今冬流行のフェアアイル模様を編み込んでいるおかげで、半年ぐらいかけて完成させた麻のバッグよりも大きいにもかかわらず、既に3分の1を越えた。模様の編み込みというと棒針編みが主流のようだが、目を輪にすればかぎ針でも編める。1段に2色ずつという配色なら、こま編みの目の中に片方の糸を隠して編み、裏側もスッキリさせることが可能。但し、棒針編みのメリアス編み地とは目の向きが異なるので、模様の形次第では途中で途切れて見えるようになってしまう。特に、左上から右下へ1目ずらしで続く直線模様が厄介。これをどうにかしたいと考えていたら、こま編みの筋編み(目の奥側だけを拾って編むこま編み)の編み地が「横向きのメリアス編み地」と気づき、裏側が「横向きのガーター編み地」だとか、目と足の糸の色を違うものにする工夫だとか、一気にいろいろ解って驚いた。「ほぉなら棒編みに変えるのが普通やて」(実母談)らしいが、今更棒針を集めるのが面倒なので、「厭や、意地でもかぎ針でやる」ことにした。棒針編みの本を睨みながら、「かけ編みは鎖で目を渡るようなもんなら、この服のここの模様も編めるんやないか?」などと考えるのは、私以外にもいると信じたい。蛇足だが、糸に関してお世話になっているごしょう産業さんのサイトには、かぎ針編み、棒針編みの解説ページがあり、動画で編み方を見ることができる。それを見ながら、棒針編みの服の写真と編み図を睨み据え、頭の中でかぎ針で編む手順をシミュレートしていたりする。多分、バカだ、私は。否、単なる頑固者か、真面目すぎる愚鈍と言うべきかもしれない。ともあれ、自己嫌悪や自己憎悪に駆られるたびに、編み図と睨めっこしては気持ちを切り替えるのに、今のところは成功しているし、それに伴うスキルアップ(?)の自覚が嬉しい。 |
| 12月7〜26日 その2:誰かに必要とされるのは幸せなこと |
| 何度か書いたかもしれないが、我が家には今、金魚が7匹いる。息子が祭りで掬ってきたものだから、琉金みたいだけれど模様が斑すぎとか、コメットみたいだけど尾鰭が短めとか、黒出目金みたいだけど出目具合が少ないとか、ちょっと半端な感じのばかり。正直言って、「鳴いたり表情を変えたりせぇへんし、目が離れすぎや、あんま可愛くねぇなぁ」と思っていたのだが、秋の終わり頃から妙に可愛く見えてきた。和金(小赤)なんて3匹いて、最初はどれがどれだか判らなくて「いらねーよ、こんなハンパでよくいるヤツは」と思っていたのに、今では私だけが3匹を見分けて楽しめる。ここまで観察できたのは、金魚なりに時間を理解し、餌をやる時間になると水面を叩いたり跳ねたりして私を呼び、時間でない時には「一応口パクしてみるか、餌をくれるかもしれんから」的に集まってきたりするからだ。気がつけば、水の入れ替えや濾過器のフィルターの購入と交換、餌の量の調整など、世話全般が私の仕事になっていた。「水槽の掃除ぐらいはしてくれよなぁ」と旦那を見るたびに思うものの、水槽を見ると、野性味など皆無の大欠伸する金魚の面があったりして、「しゃあねぇなぁ、やったるかぁ」と悪い気がしなくなってしまった。ちなみに、現在は「1日の餌の量と各金魚の排泄のタイミングと量」について観察中。旦那と息子に「また変なフェチが増えた…」と指摘されているのは、言うまでもない。 |
| 12月7〜26日 その1:自分の体だからって全部把握できるわけがない |
| ひたすら低空飛行中。ガクーンと落ちることも無いけれど、グイーンと上昇することも無い。何度か柱に頭をぶつけたけれど、死にたいからではなく、自分が赦せなくて我慢できなくなったから。で、「赦せない自分」というのが何かを後で振り返り、「何もしない自分」、「自分以外へ怒りを露にする自分」、「勝手にあれこれ考えすぎて悩む自分」など。先月末日の欄にあるとおり、1日に自分の天然石の浄化やら自己流の厄払いやらをし、気持ちを切り替えた。勿論、あくまでも「自己流」だし、「気の持ち様」を変えるきっかけにすぎない。故に、それ以降、今日までの私は、一緒に拭い取って捨てた「自分の厭な一面」を再現しないよう、葛藤しながら過ごしてきた。効果は、多少はあると思っている。「自分の厭な一面」と「赦せない自分」は直結してはいないけれど、少なからぬ繋がりはある。それを意識しつつ暮らすことは、カウンセリングを受けている時や、ダークでディープな作品を書いている時の心境のまま、普通の生活を送るのに近い。自分のことをジーッと見つめ、自分にジーッと見つめられ、過ごし辛いことこの上無い。当然、他の「重いこと」ができなくなる。まず、投稿作品「かんながら、くして、すばる。」の続きが書けなくなった。自叙伝とまではいかないが、自分の体験の暗〜い部分を穿り出している内容だからだ。とは言え、既に1年は投稿できないでいる。いおむさんに迷惑をかけているのは確かだし、create novelさんの規約に反する状態でもある。そう意識するほど気持ちが沈みやすくなり、更に書けない状態に陥る。これを1年間繰り返していると、さすがに自覚もでき、「このままではあかんやろ」と自分に切り出した。しかも、いいタイミングで永久保貴一氏の漫画「永久保怪異談」を部屋で発掘し、読み返して「心の健康」がいかに重要かを再認識した。結果、「贈呈したDRAGON TAROTユーザーさんに許可をいただけないのが心苦しいけれど、今年書いた作品の中で一番勢いのある『カードコレクターの憂鬱』を投稿させてもらおう」と決めた。たったこれだけのことで、気持ちが軽くなり始めるから不思議だ。そして、気持ちが軽く楽になればなるほど、「厭な一面」が露見する手前で気づき、「あかん、あかん、ちょっとだけ頑張れ、自分っ」と思考を切り替えやすくなる。何もかもが好転するわけではないが、とりあえず精神科医に「ある程度安定感が出てきたので、診察ペースを4週に1回にしてみましょうか」と言われただけ、マシになってきたかもしれない。傍目には何もしないままではあるけれど、こんな感じ。 |
| 12月1〜7日 癖なんて7つだけなら少ないほうだ |
| 息子は、保育園の頃から自分の指の皮を食べる癖がある。何度注意しても直らず、直すと約束しても守れず、今年度に入ってから叱ってばかりいた。結果、両手の指全部の先端1〜1.5節が真っ赤なままと、悪化した。風邪のために診察を受けた際、内科医に見てもらったら、「可能性の話でしかありませんが、チックかもしれないですよ」と言われた。本人の意識・無意識にかかわらず何らかのストレスだか欲求不満だかが存在し、それに耐えようと頑張りすぎて出る癖のようなものらしい。だから、頻繁に叱っていると、それそのものがストレスになり、自己嫌悪に陥りやすくなって、かえって行為が頻発するとか。調べた時、無論、自己嫌悪に陥った。私にも類似した「無意識のうちにやっちまう癖」が多々ある。小学校卒業前までは、現在よりも多かった。「あれもそうだった、これもかもしれない」と記憶を漁ると、とてもじゃないが他人にも身内にも話せないものばかりで、例として書き留めることすら恥ずかしい。それらを行っていた期間にあった出来事や人間関係をついでに思い出すと、ストレッサーが何だったのか、今なら推定できる。周囲の大人に顧みられなかった間は、辞典や辞書を読んで(漢字すらも)覚えた事柄を喋り出したり、無視される原因となるものの代表の新聞をビリビリに破り続けたりしていた。記憶力に任せて自分で考えることをしないからと連日特別な宿題を課せられていた間は、反対に大人に話しかけられるのが厭で、屁理屈でやり込め続けた。おかげで家族にすらも疎まれやすくなり、その後、苦手な体育や図工で半ば体罰やセクハラめいた指導をする担任に対する嫌悪感を吐き出せず、奇行に走った。中学時代にトラブルを起こしたり、それ以降は自傷行為(自分で自分の首を絞める、傷口を爪で痛めつけ続ける、など多数)や自殺のシミュレーションを思い描くなど、常に生きることを手放しやすい心境のまま、社会人になった。「例として書き留めることすら恥ずかしい」ことは、これ以外。「奇行」として家族、担任教諭、同級生などに白眼視された事柄以外にも、幾つも幾つもあるのだ。自分で自分を嫌い、憎み、殺してやりたくて、手段を企て続けることよりも重くはないが、未だにその名残と呼べる癖があり、それを私自身が「見苦しい」と嫌悪しているため、述べられない。「無くて七癖云々」と言うが、7つや14ぐらいで済むなら、少ないほうだ。私だけかもしれないが、そう思う。こんな自分自身を振り返り、「息子に対して叱る資格なんざぁ無いなぁ」と反省した。私はもう手遅れだが、息子はまだまだこれから人格を形成していける。羨ましい。が、諦めるわけにはいかない。「歳が歳だから」と諦めてしまう姿ばかり見せていられないし、旦那にも知られたくない癖もあるから、息子と一緒に、密かにだけれど、直す努力をしてみる。同時に、息子のストレスを軽減させるべく、息子の隣に座っている間は編み物をしないと決めた。「遂に」というより「ようやく」だが、「既に手遅れ」ではないと信じたい。 |