ヘタの横笛

保育園の先生方はいろんな歌を歌ってくれるようです
毎日道草しながら息子が歌って聞かせてくれます
そんなささやかな楽しい時間が嬉しいです

●ヘタの横笛top  ●つっこも〜かな

 2月28日 風邪をひいた…
 息子から風邪を貰ってしまい、現在、鼻だけで呼吸ができないし、吐息にはきっと雑菌がたくさん含まれていると思う。同じ部屋にいるだけで伝染するぐらいだから、オカリナの内部にこの雑菌を入れてしまったら、数日後の私にも再び害を為しそうで怖い。仕方がないので、今日は練習を休んで大人しくしていようと思う。
 2月27日 ムカつきついでに
 独身時代、当地で製作されたカトレア社のオカリナを、旦那にプレゼントしたことがある。それを旦那はほとんど使わず、「オカリナってさ、普通、これよりもっと小振りじゃないか?」と言った。何種類もあることを知らなかったらしい。知ってからも、吹くことは滅多に無い。「こんなもん、誰にだって簡単にできるだろうが」と言わんばかりに、私に見せつける時だけだ。だから、旦那が吹いている音色に感動なんてしたことがない。ちなみに、旦那はオカリナなどのアナログな楽器より、キーボードなどのデジタルな器具のほうが好きで、「何しろ、これ1台で、ありとあらゆる楽器の音を作れるからな」と自惚れたことをほざいたことがある。私から見聞きすれば、キーボードによる打ち込みのほうが、よっぽど「素人臭い」と思う。機材さえ揃えて取説の内容をマスターすれば、プロ・アマ問わずに同じことができるだなんて、「人間が機械に振り回されて使われている」と思う。単に価値観の違いなのだろうが、某Kなるミュージシャンが売れっ子になり、プロデューサーとしてもいろんな歌手やバンドをデビューさせていた頃から、「あ〜ぁ、機械に振り回されてるよ、この作曲家。だからどの曲も同じようなものにしか仕上がらないって、どうして気づかないんだろう? 気づかない段階で、既にプロデューサーとしても落第してるよなぁ」と思っていた。結局、某K氏は自らデビューさせた女の子達と肉体関係を結んでいたのか、その中の一人と結婚したりしているうちに、もう話題にすらならなくなった。やはり、機械に振り回され続けているうちに、同じ機材を使えば誰でも同じことができると世間にバレて、所属事務所やレコード会社からも相手にされなくなったんじゃないかと思う。ちなみに、その某K氏の曲が世の中から消え始めた頃から、旦那もキーボードに触らなくなった。それに比べて、オカリナやオーケストラ・雅楽の楽器は凄い。千年以上も姿を変えず、今もなお奥深い音色を奏でているのだから。
 2月26日 ムカつくことに
 いつも何かしらの理由をつけて土曜日は外出する旦那が、珍しく今日は家にいる。非常にムカつく。明日も顔を突き合わせていなくちゃならないと思うと、とんでもなく巨大な殺意を覚える。せめて私から分捕った離れに引き篭もっていればまだマシなのに、隣室の、私にとって唯一のファンヒーターの前に寝転がり、離れから持ってきたノートパソコンでゲームをしながら、のんべんだらりとテレビをつけていて消そうともしない。まったく、離れに閉じ籠ってくれれば、1曲だけでもオカリナの練習ができるのに…。
 2月25日 「乱(Run)」1曲目
 説教攻めに遭遇し、ただでも張り詰めている神経が、ブチリと切れた。他人と同じように何でもこなせないと、親として認められないらしい。他人と同じ趣味を持っていないと仲間外れにされ、無視され、虐められる学校社会を思い出した。当時の私は、いつも自分の死に様を選び続けていた。今もそうだ。しばらく忘れていたのに、また再発した。奇しくも、ZANのインディース時代のアルバムを車内で聞いた後だった。「♪みんな捨ててしまえば楽と、僕の中の悪魔が囁く」のフレーズが、頭の中で何度も繰り返される。それをしないでいれるのは、実父母や旦那のおかげではなく、同じくZANのメジャーデビュー初のアルバム「風籟(Furai)」の中の「まほろば」の、「♪誰かのために生まれて、誰かのため生きてるんじゃないよ」というフレーズも耳に残っているからだ。激昂と抑制が心の中で争っている。千々に乱れるという気持ちは、きっとこういう心境のことを言うのだろう。殺戮と自殺を望む心と、万事が我が血肉になるはずだと踏ん張る心とが、衝突して何もできないでいる。どうしようもなく、何とも表現できない心境をそのまま、みっともないほど言動に出せば、「キレた」とか「おまえのせいで皆が嫌な思いをしてるんだ」とか責められる。だから必死に我慢しているのに、理解してくれる人間は近くに一人もいない。SOSを発信しても、単なる我が侭だと突っ返され、ここぞとばかりにまた説教が延々と続けられる。私の中にも悪魔が住みつき、いつかすべてを捨てるかもしれない…。
 2月24日 どの先生だ…?
 時々、息子が「ウルトラマンタロウの歌」を歌えと言う。聞けば、先生が歌ってくれるから、一緒に歌えるように練習したいらしい。そりゃね、私はリアルタイムで見ていたから、今でも歌えなくないよ。でも、5人いる「ひよこ組」の先生のうち、どの先生が歌ってくれるんだ? 少なくとも3人は私よりも年下だぞ? 第一、オカリナのC管もF管も、運指が「ド」なら全部同じ「ド」に聞こえるような、音感の無い私に習ったら、先生や友達に「音痴〜♪」って言われるんじゃないか? いろんな疑問が湧いてはくるが、とりあえず歌ってしまう自分が、何となく無責任な気がする。それにしても、本当に、どの先生がウルトラマンタロウの歌を歌うんだろう…(謎)。
 2月23日 短調と長調の違いも知らず
 「のだめカンタービレ」を読んでいると、クラシックとかオーケストラとかが身近なものに思えてきて、もう錆びついてしまっただろうフルートを出してきたくなる。が、「短調と長調の違いって、何?」な私…(恥)。中学の部活とは言え、仮にもフルートを吹いていたことのある身なのに、記号の名称もまともに覚えていないし、第一、楽譜が読めないし。万が一、市(陶磁器の街の一つ)が街興しとしてオカリナのアンサンブルを結成すると言い出しても、私は絶対に参加できない。するのが怖い…。いや、恥ずかしい。オカリナの入門書に、確か説明が書いてあったはずだから、それを読むことができるよう、頑張れる時に頑張ることにする。
 2月22日 結局好きなんだと思う
 素焼きちゃんで、1音1音確かめるように「大きな古時計」を練習。暗譜したはずなのに、ところどころつっかえた。眠いからかもしれないが、それを理由にしたくない。暗譜したことで調子に乗りすぎ、練習を怠ったからだと思う。その証拠に、運指を間違えなかった個所も、指が穴から僅かにずれ、音が微妙に違ってしまった。折角覚えた曲なのに、口惜しい。こういう気持ちは、きっとオカリナも曲も好きだから抱く感情なのだろう。もっとたくさんの曲を好きになろう。そのたびに間違えるところが増えるかもしれないけれど、それはオカリナを好きでい続けることでカバーできるようになりたい。まだ初心者マークが取れない身だけど、そう思う。
 2月21日 吹き口の釉薬が冷たくて気持ちいい
 昨日の欄で、曲名を間違えていたことに気づき、訂正しておいた。どの曲かは敢えて書かない、恥ずかしいから。その曲を含めたミニアルバム「風籟」を聴きながら、隣市の病院からの帰り道、いつものように御岳と中央アルプスを遠望する。運転しながらなので非常に危険だが、幸い歩行者はほとんどいない峠道なので、「いっそこのままあの峰々まで飛べたら良いのに」と思いながら車を運転している。その峠道には、「どんぶり会館」という道の駅があり、展望台や歩道橋は「御岳や中央アルプスを見ることができる」と評判で、観光バスが停まっていることも多い。そこでカトレア社のオカリナも販売されている。たくさんの食器と一緒に、ほっこりとした音色のオカリナが何気なく並んでいる。カトレア社の製品は、大量生産しているわけでもないし、試行錯誤を繰り返して形や大きさなどが変化していて、見るだけでも楽しめる。吹いてみると、メーカー品に近い調整がされているし、同封の説明書には「バラが咲いた」の楽譜もあるので、私のような初心者にはありがたい。冬の清々しい空気の中、古来信仰を集める山々を遠望しながら、地元の土で製作されたオカリナを吹いたら、どんなに気持ちいいだろう。そんなことを考えながら、今日も峠を越えてきた。
 2月20日 オカリナとは無縁だけど書かずにはいられないので書いてしまう
 何度か書いているが、私はZANという和楽器アンサンブルが好きだ。ZAN unionなんていう非公式ファン同盟をこっそり立ち上げてしまったぐらい、ZANの音楽が好きだ。インディース時代のアルバム「乱(run)」も購入して、メジャーデビュー最初のミニアルバム「風籟(Furai)」へと、どう音楽が変化していったのか想像してしまうほど好きだ。マキシシングルを1枚たりとて買い忘れまいと、こまめにオフィシャルサイトをチェックしていることなんて、生まれて初めてだ。そのオフィシャルサイトの一角に、メンバー諸氏のオンライン日記がある。それを読んだら、どうしても書きたいことが生まれてしまったので、ここに書き留めておきたい(いずれavex経由でメンバー諸氏にメールできれば一番良いんだけど)。
 ZANの曲の良いところというか、最も心に染み入ることは、「自然から譲り受けた楽器を用いて、人間社会を含めた自然全体を表現し、感謝し、応援していること」だ。「乱」では人間個人の在り方や心の持ち方を模索していた。ちょっと社会に対して斜に構えた若さがあった。そこから試行錯誤を重ねたのだろう。「風籟」では自分と社会の関係という枠から飛び出し、自然体で真正面から地球全体を見つめている曲へと昇華した。山の風情と厳しさを謳った「風籟」、遠くシルクロードへと思いを馳せる「疾如風」、親しい人達へ照れ臭そうに感謝を謳った「思ふ空」、谷川の生き生きとした流れと人の魂を空へと送り出すかのような「龍神」、これからの世界の在り方を憂いながらも希望を決して捨ててはいけないと訴えかける「まほろば」、人と人との縁の妙を歌い上げた「結(Yui)」。これら以降に発売された「幸ひ人」や「昴」も、カップリング曲も含めて全部、「今の時代だって、悪くないよ。僕ら全員で頑張れば、もっと好くなるはずだよ」と語りかけてくる。それは、登山を趣味にしているリーダーさんや、自分を雨男と楽しそうに称する慎さん、日常のささやかな出来事をも大切に受け止めているコミさんが、今まで培ってきた気持ちを持ち寄り、音も言葉も選び抜いて、聴き手である私達に伝えようとしてくれているからだと私は思う。だからこそ、「風籟」を聴いた私は、オフィシャルサイトで三人の日記を読みたいと思った。三人が何を考え、何に感動し、こんなに心に染み込んでくる曲を作り上げたのか、知りたいと思った。だから、リーダーさんの山の話にワクワクしたり、慎さんの雨・雪話に「あ、私も、私も」と楽しくなったし、コミさんの友達との楽しげな写真やエピソードに微笑ましい気分になれた。そして、コミさんのところへ「山の話はちょっと…」的なメールが届いていたことや、そのためにコミさんとリーダーさんが気落ちしてしまっていたことを知り、私も寂しくなった。山の話も、友達との話も、歩きながら考えたことも、全部ZANには欠かせなくて、大切なことだと思う。それを日記として書き留めておいて、私達ファンに伝えてくれるなんて、嬉しいことだと思う。勿論、日記の内容に関してご意見メールが届いたことも、それを機に気落ちしてしまったことも、最後にはZANの曲の糧になるはず。なぜなら、「幸ひ人」も「昴」も「巡る春」も、好い曲だから。心の中で突っかかっていた気持ちに一区切りがついたら、きっとコミさんにとってもリーダーさんにとっても自信となって、もっとZANとしての活動に磨きがかかるだろうから。少なくとも、ここに一人は陰ながら応援している人間がいる。しかも、まだ3歳の息子もZANの曲が大好きで、一緒に口ずさんでいることもある。私の実母も、ZANの曲を覚え、一緒に聞き惚れている。日本には他に1億人以上いるのだから、同じように聞き惚れている人がいるに違いない。世代を超えて聞き惚れることのできる曲を作っているという自信と誇りを、メンバー諸氏だけでなくスタッフ諸氏も抱いていると信じている。次のアルバムも、絶対に買う。そして、親子3世代でまた聞き惚れるだろうから、「コミさん、リーダーさん、慎さん、いろんな話、教えてね!」。
 2月19日 息子よ……
 息子がプラちゃんや鬼太郎ちゃんを見つけ、吹き口のほうを握り締めて、「ばん! ばん!」。保育園でも、指をピストル型に握って打ちあって遊ぶのが流行っているらしいから、相手をしてやるととても喜ぶ。私が指でピストルの真似をしたら、プラちゃんのほうを差し出して「これ、ママのね」。「はい、ありがとう」と受け取ったら、早速「ばん、ばん!」。反撃しながら、そう言えば初めてオカリナ(プラスチック製)を手にした(十数年前の)私も、最後にはピストルごっこに使ったっけ…。…ま、まぁ、とにかく形からでも馴染めばいいってことだよな…。
 2月18日 「大きな古時計」
 「ものぐさ日記」にちょっと感情的に書いたが、実父は自分がいつか家族に捨てられると勝手に決めつけ、卑屈で嫌みな言動を故意に私に見せつけることが多い。それだけ、実父もいらなくなった物も人も見限ってきたということだろう。そう言えば、実家の居間の壁にあった鳩時計は、いつ捨てられたっけ。電池切れでもないのに鳩が出てこなくなって、実父が直そうとしたがかえって故障し、自棄になって実父が不燃物置き場に投げ捨てたはずだ。昔、夜中にも鳩が鳴き、私はそれを真上の部屋のベッドで聞いて丑三つ時とかに気づいたものだった。「大きな古時計」で歌われているのは、きっと柱時計だろう。百年動き続けた時計を歌うことで、亡くなったおじいさんに対する愛着や敬意が表現されている気がする。そして、次に新しい時計を迎え、同時に世代交替を行うのだろう。この曲が物悲しいだけではないのは、そういう希望があるからか。道理で長く歌われているはずだ、などと生意気な感想を抱きながら、素焼きちゃんで練習した。短時間だったけれど、しっとりとした時間を過ごせて、嬉しかった。
 2月17日 またオカリナ話じゃないけれど昨日の続きみたいな話
 「風籟(ふうらい)」をCDに合わせて歌っていて、小湊氏の歌声には人並み以上の声量と艶(つや)があることに気づいた。民謡で鍛えられた腹筋と喉は、ポップスを歌っても充分すぎるほどの声量を産むのだろう。何しろ、「一般人ならこれでフォルテッシモだろう」という感じを受ける部分から、さらに強く大きく声が膨らむのだ。だからこそ、小湊氏の「風籟」はメリハリの利いた歌に仕上がるが、中学以来腹筋すらサボっている私では同じ曲とは思えないほどのんべんだらりとしてしまう。その後に発売されたマキシシングル「幸ひ人」と「昴」にしても、同じことが言える。「まだ伸びるのか!?」「まだ天辺じゃないのか!?」と、驚かずにはいられない。しかも、民謡などの「謡い」は、「声を出す」のではなく、喉を解放して頭の天辺から歌声を出す。一昔前のCMで目の前の蝋燭の火を揺らすことなく女性が歌っているというのがあったが、まさにそれだ。喉で吐息を絞って声帯を震わせることがないから、通常の発声から裏声に変化しても違和感が無いばかりか、表情豊かな声になる。それに、喉を絞っていないから、聴いていても苦しさを感じなくて、凄く自然に耳から思考へと染み込んでくる感じがする。「宗次郎氏のオカリナも、きっとこんなふうに聞こえるんだろうなぁ…」なんてことを思いながら、今日もファーストアルバム「風籟」を聴いていた。
 2月16日 「巡る春」
 ZANのマキシシングルを聴いていたら、この曲が妙に耳に残って離れなくなった。歌詞を記憶しているわけでもなく、他のことをしながら聴いていたはずなのに。恥ずかしながら、ピアノ曲やオーケストラによる演奏を聴くと、私は眠くなる。眠くなるのも感動の仕方の一つだと聞いたことがあるから、ちょっと安心したけれど、聴いている曲の背景や特徴などを知りたいと思うほど、音楽に親しみを抱いているわけではないから、恥ずかしい。ロックやポップスですら、興味を持っていないと、ほんの数曲で眠れるぐらいだ。だから、恥の晒しついでに述べてしまえば、ZANの曲も打楽器(ドラムス)に支えられていることに、最近まで気づかなかった。その代わり、と言うのは変だが、弦の音色も篠笛の響きや尺八の謳いは、日本人の耳に対して、想像以上に優しくて馴染み深いものだと思っている。そういう曲に小湊氏の民謡で鍛えられた歌声が凄くマッチしていて、懐かしい感じを受ける。だから「耳に残る」のだろう。余談だが、この欄を読んだ方には、「風籟(ふうらい)」を一度でも良いからカラオケで歌ってみてほしい。間合いがJポップスとちょっと違うし、何より、歌詞を単に追いかけるだけだと、のんべんだらりとした感じになってしまうから。私も何度か歌ってみたけど、ホント、「耳に心地よい曲なのに、メリハリの付け方が分からない〜!」てな感じで、自分の歌唱力の無さに恥ずかしくなった。と同時に、そういう曲を「歌い上げる」小湊氏は凄い人だと納得した。オカリナの教本にも「歌うつもりで吹きましょう」とか書いてあったけど、私の演奏(と書くのもおこがましいが)は「まだまだまだまだ」未熟すぎて、録音してサイトにUPなんて、とてもじゃないけど恥ずかしくてできない…。精進、しなくちゃ、だわ。
 2月15日 遠くなるけど楽しみもある
 明後日開港される中部の空の玄関「セントレア」は、愛知県の海上にある。当地からは、小牧の空港よりも車で1時間以上、遠くなる。だが、常滑に近い分、空港内の土産物売り場に常滑焼のオカリナが並ぶのではないかと、少し楽しみにしている。何しろ、常滑には、独特の笛を作る人がいて、その人の工房にはいろんな工夫が施された笛が並んでいると、当地のニュース番組で見聞きしたことがある。ホルンのような形の本体の中に水が入っていて、楽器を傾けることで音階を作る楽器が、未だ印象に残っている。空港への途中に立ち寄ったりするツアーがあったら、ぜひ参加したいぐらい、その工房を見てみたい。
 2月14日 ……(脱力中)
 心身の疲労感と買い出しに行かねばという使命感と今夜は息子の面倒を一人で見なくてはという責任感とが押し寄せてきて、脱力中。練習は、したいけど、下手すると管を落としかねないので、休む。代わりに、ZANを聴く。オカリナもそうだが、管楽器というものは、本体の温まり具合や管内の湿度、吐息の量や吹き込む角度によって、音色が変化する。尺八はそれらを巧みに利用し、音階を超えた微妙な演出技術で「聴かせる」ことができる。隣の町内会の、尺八の名取りのご老体の受け売りだが。だいたい、楽器の素材が竹だ。一つとして同じ成長をするはずがない。運指が同じであっても、音色はまったく違って当たり前だ。ZANの尺八と篠笛を担当している方は、一つの舞台のために18本もの管を持っていき、曲や合わせる楽器によって使い分けているそうだ。全部が違う音を出すから、単純に運指を覚えるだけでは済まないらしい。和楽器、奥が深いぞ、深すぎるぞ…。ちなみに、私はZANのCDを初めて聴いてからすぐ、「ZAN union」なる非公式ファン同盟を立ち上げてしまったぐらい、のめり込んでいる。活動内容は、「ZANの曲を聴く」「カラオケなどを通して他の人にもZANを知ってもらう」「avex内の公式サイトでメンバーのオンライン日記を読む」程度。早い話が、「ZANが好きだ!」という気持ちがあれば、オールOKだったりする。そこにも「ペットルーム」が設置してあるのは、あまり知られていない…(えへ)。
 2月13日 「……(唖然)」
 旦那の前で、鬼太郎ちゃんでの「大きな古時計」を吹いた。元から音感の無い私には平気だが、かつてゲームソフトメーカーK社でプログラマをしていてBGMも担当したことがある旦那には、(ここでタイトルどんっ!)だったらしい。息子も一緒に聴いていて、「うたっちゃだめ!」と言った。息子は楽器を演奏することと歌うことの区別がまだついていないため、オカリナは口にくわえて吹くものだし、「うたう」と言うのだ。と、それはどうでもいい。「ああ、ちゃんと音感があるんだな」と確認できた。私に似ないで良かった、良かった。
 2月12日 ……(溜息)
 昨日に引き続き、心に余力が残っておらず、最低限の家事と育児でガス欠状態に。しかも旦那が在宅中につき、オカリナの練習はしたくなくなった。が、ふと思い立って鬼太郎ちゃん(鳥取の土産物:一応11穴)で「大きな古時計」を吹いてみた。他の音はともかく、ミとファとソがでたらめだった。それでも土産物として作られた小さなオカリナとしては、マシなほうなのかもしれない。息子も喜んでピストルに見立てて遊んでいるし(何か違う)。
 2月11日 ……(涙)
 午前中は起きられず、午後からはいろんな意味で緊張が抜けず、隙をついて日記を書いていたら、泣けてきた。心に余裕が無い証拠だと思う。プラちゃんを手に持ったものの、吹けなかった…。
 2月10日 2番の歌詞は確かスクラップ行きだったはず…
 朝から「明日は休日」ショックが続いている。日本全国の常識ではあるけれど、すっかり「建国記念日」(だよね?)を忘却していて、しかも心が疲れている私にはかなりショックで、「ああ、もう心静かに、のんびりできる日は来ないんだ…」とまで落ち込んでいる。「それなら、この最後の穏やかな時間に敬意を表し、名残惜しむ気持ちも込めて、久し振りに素焼きちゃんで『大きな古時計』を吹こう」と決めた。ちゃんと調律された「楽器」であり、相応の重量感のある「陶器」なので、構えるだけで気持ちがシャンとなった。曲そのものは運指で暗譜しているけれど、つまづき癖のあるところでちゃんとつまづき、苦笑せずにはいられない演奏だった。けれど、冷たくも温かくもない陶器の吹き口の感触も、プラスチックとは違うスベスベの感触も、とても気持ち良かった。「これで最期になるかもしれない」という気持ちが、腹にズシリと据わった。大袈裟だと自覚してはいるけれど、それぐらい心が疲れているということだ。同時に、気持ちが腹に据わったということは、疲れたままの心で何とか3日間を乗り越えようという覚悟を決めたということでもあると、我ながら信じたい。
 2月9日 「きらきら星」
 息子はきらきら光る物が好き。プラちゃんはプラスチック製であるだけでなく、ラメが入っていて、きらきら光る。だから、プラちゃんで「きらきら星」を吹くと、息子は非常に喜ぶ。喜ばれるのは嬉しいが、「きらきら、すてきねぇ…!」と感激いっぱいの表情で言われると、「おまえ、男の子だからな?」と言いたくなる。
 2月8日 「昴」ZANバージョン
 精神的に、かなりテンパっている。自己嫌悪だけでなく、周囲の勘違い野郎共に対する憎悪や悔しさ、辛さなどが渦巻いていて、心が荒んでいるのが自覚できる。こういう時には、腹に力が入らないから、自分で演奏するよりも、気に入りの曲を聴くほうがいい。先日買ったZANの「昴」を聴こう。リーダーさんの篠笛や尺八の響きと、慎さんの細やかな弦の音の重なりに加えて、小湊さんの尺八だけでなく伸び伸びとした歌声も、オリジナルとは一味違う「昴」に仕上がるほどに、好い。現在、アルバム製作中らしい。楽しみだ。うん、「楽しみ」っていう気持ちが戻ってきた。今夜は「昴」を聴きながら、休もう。休ませてもらうのではなく、「休む」。そうしよう。
 2月7日 音楽ってやっぱり好いね
 プラちゃんで「きらきら星」を吹いた。息子も姪っ子も楽器には興味は示すが、自分で吹けないことが歯痒くて、すぐに放り投げる。やはり、割れやすい陶器の楽器はまだ出せない。姪っ子が帰宅し、息子も見送りついでに実家へ行った隙に、今度はゆっくり丁寧に「きらきら星」を吹いた。理性がブチ切れまくった一日だったが、ちょっと落ち着いた気がする。気がするだけで、実際にはブチ切れたままなのだろうが、とにかくちょっとは落ち着いた。
 2月6日 …………ちっ
 今日は実弟一家は嫁さんの実家へ出かけたので、洗脳作戦は休み。それだけでなく、旦那が居間に居座っていたおかげで、「きらきら星」すら吹けなかった。旦那の後ろ姿を見るだけで、以前「そんな程度の曲しか吹けないの?」と言わんばかりに鼻で笑われたことを思い出すから。
 2月5日 今度こそ…!
 今夜も姪っ子(実弟の長女:2歳)が遊びに来たので、息子(3歳)と電動自動車で暴走しまくっている隙に、プラちゃんを取り出し、「チューリップ」と「きらきら星」を吹いて聞かせた。途端、暴走車両は停止し、「それ、かして!」×2が始まった。鬼太郎ちゃんも取り出し、喧嘩にならないように一つずつ持たせたら、二人ともくわえて高音のファを吹きまくった。プラちゃんは大きくて穴が塞げないし、鬼太郎ちゃんは小さいけど調律してないし、何より二人とも単に吹けば曲が出るのだと思っていたから、すぐに放り投げられた。だが、最初にしては良い反応だ。しめしめ、実弟や嫁さんが知らない間に、オカリナ好きに染め上げてやる(にやり)。
 2月4日 チャンス到来…!?
 姪っ子(実弟の長女:2歳)が遊びに来たので、「よっしゃ! 洗脳チャンス!」と思ったが、息子(3歳)と一緒に部屋中を電動自動車(子供用でペダルを踏むと前進するタイプで我が家には2台ある)で走り回り、「あぁっ! 本の山に突っ込まないでぇっ!」「そっちは布団がぁっ!」と、爆走する怪獣達を追い掛け回すだけで精一杯。気がついたら、夜の9時…。息子を風呂に入れたりしているうちに、実弟が迎えに来てしまい、オカリナ洗脳作戦は未遂に終わった…。ちくしょー、次の機会こそ、怪獣達に負けずに闘ってやるぅ…(趣旨がズレとるがな、自分)。
 2月3日 企みは延期になった
 少し回復して食事もできるようになったので、今日こそは姪っ子(実弟の長女)が遊びに来たら、オカリナを吹いて聴かせてやるぞ、と密かに僅かな気合いを入れたのだが。実弟(病院の調理師)が休みらしく、朝から家族で出かけてしまった。「ウチの旦那も、あれぐらい息子をあちこちへ連れてってくれたら、きっと息子も喜ぶのになぁ…」と羨みつつ、「私なりに息子と戯れることができればそれでいいや…」と諦め、プラちゃんで「チューリップ」を数回吹いた。いつか、園なり学校なりで楽器のことを学ぶ時、オカリナを見て「これ、うちにある!」と目を輝かせてくれたらいいなぁ、なんて思いながら…。
 2月2日 ……お休み……
 精神的にも肉体的にも、ちょっと限界を突破した(詳細は「ものぐさ日記」参照)。気分直しに(落としても割れない)プラちゃんで何か吹こうかと思ったが、自分の吐息の臭いに眩暈を覚え、やめておくことにした。今度姪っ子(しつこいようだが実弟の長女2歳)が遊びに来たら、プラちゃんで「チューリップ」や「きらきら星」を吹いて聴かせてあげようと、密かに企てている。
 2月1日 許されない道楽…?
 以前、カウンセラー女史に「他人の目から見た自分ではなく、自分で自分を振り返った上で、大切なものは大切にし、嫌なことは嫌なこととして吐き出してしまいましょう」と言われた。けれど、私の生活はひたすら「実父の面子を潰さない」あるいは「実父の人となりを飾り立てる」ためにあるようなもので、どんなに振り払おうとしても、「いついつにはこういうことを話していただろう」など、過去の実父の言動や鬼のような顔が脳裏から離れない。今日もオカリナを練習しようとしたら、「息子を保育園に入れたのは、そうやって遊ぶためか!」と怒鳴りつける実父が思い浮かび、怖くなってオカリナを落としそうになった。この怖さは、きっと一生続くのだろう…。

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